昭和50年07月16日 朝の御理解



 御神誡 一、「口に真を語りつつ心に真のなきこと。」

 今日は実はこの教典の中の、ここの所を頂いたんです。御理解の御と言う字。御と言う字、この御という字を、今日は頂いたんです。それでどう言う事だろうかと思わせて頂きましたら、その行人遍と卸と言う字が書いてありますね。御と言う字は行人遍を書いて、卸と言う字が書いてあります。卸小売りの卸という字。そう言う事を頂きましたから、例えばお互いが、信心に修行はつきものですから、様々な修行もさせて頂いておる訳です。今夏期心行があっております。
 夏の暑い盛りに、本気で心行に打ち込もうというやっぱり行です。皆さんがこうやって朝参りをなさる。やっぱりこれも朝参りを行と思うて、皆さんお参りにならなければいけません。只あれを頼まんならんこれを願わんならんからでなくて、それを行と言う事になります時に、朝参りが生き生きとして来ます。行には必ずおかげはつきものです。また力もつきお徳も受けられる訳ですけれども。
 同じ行を致しましてもその行の焦点を間違えますと、それが大変値打ちがあったり、値打ちのない行になったりするから、心掛けにゃいけません。折角修行させて頂くならば、充分神様が行として受け取って下さる様な行をしなければいけません。最近合楽では、表行と言う事が全廃されました。形の上の行と言う事は、もう絶対いけないとこう決めつける様に言われております。以前は随分断食をしたり水行をしたり、いわゆる火や水の行をしたものですけれども。
 これはむしろ一理がある様であって、百の害があるという様な感じすらが致します。成程水を掛ったり断食をしたりして、神様にお縋りをするというのは、神様をごうぐる様にして、神様にしがみ付く様にして頂くおかげですから、そういうおかげは脆いです。だから表行で御比礼が立っておる教会なんかと言うものは、もうその表行をする事のない、中心が止めたらそのまま火が消えた様に、御比礼と言うものは落ちるものです。
 ですから表行はね合楽では致しません。ですからもう心行一本所がこの心行と言うのはしとるやら、しとらんやら実を言うたら分かりません。形の上では分かりません自分の心でしておる事ですから。けれども本気で心行させて頂こうと思うたら、心行はいつも絶えず、どこででも出来るのです素晴らしいです。心行程素晴らしい事はないです今日私はこの心行による行と言うものは、卸売小売と言う様な言葉で言うならば心行は卸売にも匹敵するものであるという風に、今日はこの御の字から頂いたのです。
 行と言う字と卸と言う字。ですから皆さんに聞いて頂こうとする所をです。強いてみ教えを引っ張って来るとです。今お唱えさして頂きました様に、口に真を語りつゝ心に真のなきことゝ言うことになるでしょう。これはサブタイトルですだから。今日はどうでも心行、然も心行と言うのは、いわば卸小売と言うならば、卸にも匹敵する程のものだと言うこと。私は今日その事を、神様にお知らせを頂いてから、あゝ本当そうだなと思った事があるのですけれども。
 お互いがこの様に信心の稽古をさせて頂いております。教えも身に段々ついて来ております。体験も持っております。言うなら自分は充分ここまでは分かっている。ここまでは体験をもって体で、おかげで体験しておると言った様な事が、沢山ありますよね。これは分っている。これまでは分っていると言う事なんですよ。その分っている事、自分に体験をしている事、自分の血肉にもなつておるかの様に思うておった信心がです。迂闊にしておりますから、それが役に立ってないと言う事実です。
 私はこれは本気でお互いおかげ頂かねば、折角これだけ信心させて貰うて、あゝそうだと分かった時には、あなたのものになっているです。あなたのものになっておるのだけれども、それを使い切っていない愈々の時に。愈々の時に淋しゅうなる。愈々の時に腹が立つ、イライラせんでよいのにイライラする。腹を立てゝはならん事に腹が立つ。これなんか正しくね、頂いておるものを迂闊にしておるから出し切らんでおる。
 いわゆる宝の持ち腐れです。私は今日ここん所をひとつ、それを頂いておるものを頂いておるものとして支えることの為に、心行を怠ってはならぬと言う事を聞いて頂きたいです。自分の心の中にズーッと神様があり、心に心行させて頂くと言う事は、神様を身近に頂いておく事なんです。如何に人の目にはつかんでも、神様は見ておいでる。人には聞こえなくとも、神様には聞こえよる。ですからそれを仇や疎かに出来ないと言う様な、修行を心行と言うのですから。
 そういう心行が本気で出来ておる時にはです。もう知るっておる事体験しておる事、自分のものになっておるものですからです。そう言う事が出来てない時には腹の立つ様な問題でも、むしろお礼が言えれる様な心が生れて来るです。イライラバタバタしよる、神様の働きの一分一厘間違いのない働きを、体験させて頂きながらです。イライラしたり慌てたりしておるという様な時には、愈々心行が今欠けておる時と思わなければいけません。だから頂いておるもの貰うておるものそれを宝と言うならばです。
 その宝の持ち腐れにしちゃいかんです。これは随分多いですよ皆さん。勿体無い話です。分っておるもの、知っておるもの、自分のものになっておると思われる程しのものがです。いざという時に出し合わせんで、腹立ったり淋しかつたりバタバタしたり、慌てたりしておると言う様な事では勿体無いでしょう。だからそれをいつも支えるもの。昨夜は富久信会でした。福岡の嘉朗さんが発表しておりました。最近はおかげを頂いて、言うなら素晴らしいその日暮らしをさせて頂いておると言っております。
 本当に細々とした事でございますけれども、私共の商売人ばっかりの信心心象です。ささやかなお商売ではありますけれどもです。その頂くおかげはささやかですけれども、神様がこのようにも間違いのないという働きを見せて下さいますから有難い。おかげで余裕がない、ゆとりがない。おかげで遊びにも行かんと言う事を言っておりました。この人は大変器用な人すから、何をさせても出来ん事がない訳です。パチンコ、マージャン、最近はあげんとばやりよるです。こうやってゴルフ。
 本当にそりゃ言うなら何と言うでしうかね、普通あれが信心なかなら、遊び好きで堕落してしまう人でしょうね。そりゃ素晴らしい内容も持ってます。信心も或る意味で素晴らしいです。けれども商売人がこげな遊びをするごつなったらもう駄目ですよ。商売と言うか、信心する者はと言うても良いです。とても賭事どもする人間は、商売で絶対成功せんです。それを敢えてやるのですから。如何に好きかと言う事が解るのです。何ち言うかそう言う事は、商売に打ち込んどらん証拠ですからね。
 それこそ将棋なんかと言うものは、親が死んだかもう一手と言うごとある。将棋を指しとる時に親が死んだよち言うたっちゃ、一寸待ってくれと言うてから、その指し残りをせにゃおられんごと、やっぱ魅力のあるものらしいです。こりゃ私は商売人ですからね、色んな遊びも、身に付けましたけれども、この賭事だけは絶対しませんでした。北京北支あたりに行きますと、花札やらなんかせん者は馬鹿んごと言うです。麻雀やらせん者は。けれども、私は絶対それに加わった事がありません。
 所が嘉朗さんの場合は何でも出来る訳です。それで今のあの若さでですよ。例えばドンドン商売の上でおかげ頂いたら、絶対麻雀ゴルフ所はいつも行く人ですね。これはいっちょどうでんこうでんね、子供たちになんでんこれは喰いにじるごと言うとかにゃいかんですよ。「賭事だけはいかんぞと。」いろんな遊び、それはレジヤーも良いでしょう。けれども賭事だけはいかんです。
 もう不思議な魅力があるらしいです。これでミスミス自分は、つまらん様になると思たっちゃ手を出さにゃおられんらしいですね。賭事と言うものは、私はした事なかけん分からないけれども、私は何人ものそういう麻雀でつまらんごとなった人のお届けを、ここで聞かせて頂いとるから、そんなもんだろうかと思う位です。その嘉朗さんが言っておることは、おかげで遊びにも行かんで済みますとこう言うとる。しかも細々ながら日に日にです。神様の間違いのないお働きを感じておると言うのです。
 ですから一寸油断すると、今家族四人ですか家族四人の者が、例えて言うなら口を棚に上げんならんごたる結果になるわけです。だから油断ができん絶えず自分の信心を支えるものは、心であり心行なんです。私はどうでも本当に神様がおかげを下さる前にはです。そういう神様の一分一厘間違いのない働きを見せて下さる。そして余裕余分と言った様なものは、全然ないと言う様な修行を必ずさせて下さると思うです。人間は弱いです。ゆとりが出来たり余裕が出来ますと、要らん事に手を出す要らんもんまで買う。
 そう言う事になったんではいけません。そう言う事になったら私が申します様に、それはまた神様の有難さが分かっておるから、それこそ水被ったり断食してからでも、愈々の時にはお願すりゃおかげを頂かれるという自信を持った人もありましょうけれども、そう言う事で頂くおかげは、本当に神様に御無理ばかりを言う信心で終わってしまいます。それでいつも絶えず心行をです。
 心行に依って例えば、油断をしたら言うならば家内子供が生活にも事欠くんだという位の所を通らせて頂いて、心行をさせて貰う信心をさせて頂くところからです。間違いのないそれこそ間違いのない働きを受ける事が出来る。この様にも間違いのない。所が遊びに行ける程しの余裕はない。如何に神様が遊びをお嫌いになると言う事を、充分嘉朗さんも分ったとするか。そこから今度はゆとりのある、も少しはましな商売も出来る様になるだろう。お互い知っておる事、自分の物になっておる様に思うておる事。
 いやなっておるのです。もう貴方のものになっておる、あなたはその信心は貴方のものなんです。と言える程しのものを頂きながらです。それがいざと言う時に役に立っていないと言う事。そのためにはもう一遍神様の間違いのない、その日暮らしをさせて頂ける様な所を通らせて頂く事に依ってです。絶えず自分の心の中に、それを支える物は心行です。そういう私は心行はです。表行を小売とするならば、心行は卸売がた程ある値打ちのあるものだと言う事でございます。
 皆さん思い当る事はないでしょうか。確かにこれだけは自分のものになってると思うておる信心があるでしょうが。所がいざという時にうろたえたり、腹の達ったり淋しかったり、イライラしとる時には、もう頂いておるものを出し切らんで居る時です。馬鹿らしいでしょうが。そして後でまた失敗したとか。自分の手持ちがあったのに出しきっとらん。言うなら宝の持ち腐れである。そう言う事のない事の為にです、お互い本気で心行で頂いておる信心を、支え続けなければいけません。
 私は心行とはそういう働きをするもんだと思うです。そんなら頂いておいるものがこれで良いという事はない。愈々益々また信心の奥義にも進んで行かなきゃならん、もっと素晴らしい信心が自分のものになっても行かなきゃならない。心行を怠りますと信心が堂々巡り、同じ所ばっかり廻っておる。自分の物でありながら、それをフルに使いきらんのですから。頂いとるものはフルに使わにゃいけません。
 私はいつも思うんですけれども、皆さんにこうやって御理解を聞いて頂く。私の体験もさる事ながら、神様に頂いた事を聞いて貰う。私にもちっと学があったならば、この事をもっと素晴らしい言葉で、皆さんに聞いて貰えるだろうと思うです。もっと解りよくもっと素晴らしい言葉で、聞いてもらえるだろうと。お話しが後になったり先になったりして相済まん事だなぁ。
 折角これ程しの事を頂いて、私自信はあぁそうだなと思うとるから良いけれどもこれを人に伝える時、皆さんに伝える時にまちっと素晴らしい表現方はないものかと思うです。そのために私は勉強します。ですからここの御理解は、私のこの頭脳の全てを、フルに使って、皆さんにお話しを聞いてもらってる。これでもそんなに絞っておるです。毎日のあの塗板に書かれておるものなんか、私の頭脳の全てですあれは。
 小学校だけにしか行っていませんから、小学校で習ったつの、何十年前の事を頭の中にちゃんと入れといて、それを適当な時に出させて頂くのです。私の持っている知識のすべてを、フルに使うておうると言う事なんです。だからそんなものをお話を聞いて下さるのだから、感じて下さるでしょうが。私の持っている知識の全てを、フルに使っている訳です様にです。皆さんが頂いている信心をです。もう十二分にもうあらゆる事に、応用が出来るのですから信心とは。
 だから皆さんが頂いておられる信心をです。ある場合は病気の時に使い、或る場合には経済の事に使い、或る場合にはそれを人間関係の事に使こうて行くという様にです。それをフルに使わせて頂く事の為に、皆さん心行をもってその頂いておる信心を支えて行かなければ行けません。そしてこの時こそ信心を使う時だという様にですね心掛けです。今日は心行言うならば、それを心行とは。
 卸売の値打ちのあるものだと言う事を聞いて頂いた。それを強いて教典から頂きますならば。只今申しましたように口に真を語りつつ、心に真のなきことと言う、例えば言うておる事と、自分の心の中に言うておる事と、心に思うておる事が、同じであるかと言う事を、思う事はすでにそれは心行です。そして自分が心にもない事を、もし言うておるとするなら、神様相済みませんと詫びる事は。
 もう心行です心をフルに使う。そして形の上には見えなくても、言葉の上には出さなくっても、自分の心でなさして頂く所の、心行によって神様の一分一厘間違いのない働きを、日々体験さして貰う。感じさせて貰う。そういう信心の積み重ねこそがです。卸売的な大きなおかげになってくるのです。それを知っておりながら、分っておりながら、心行をしてない証拠に、迂闊しとりますから。
 頂いておるものも出ませんでしまう。本当言うならフルに出せる。それを出さにゃん時に出しきらずに、慌てたり腹がたったりイライラしたり、と言う事になっては、勿体無い話です。もう本当に心行大奨励ですから、今合楽では。どんな場合でも心行はできるのです。バスの中でも便所の中でも、お風呂の中でも。どういう様な在り方になったら、人が喜ぶだろうか。どういう在り方になったら。
 神様喜んで下さるじゃろうか。例えばそういう事思い続ける事なんですから。それで形でなさせて頂いとる事が、こげなろくそな事をしよると自分が思うたら、是では人が不愉快に思うだろうと思うたら、それを改めて行こうと言う、それが心行なのですから。心行の範囲は大変広い。なぜ心行しなければならないか、折角頂いておる信心をです。フルに使う事のできる事の為に、本気で心行をさして貰わなきゃならんと言う事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。